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 コナツにこの後の指示を出した後、アヤナミの部屋に戻ったヒュウガは、主が眠っているはずの寝室へ足を運んだ。キングサイズの細かな装飾が施されたアンティークのベッドのほぼ中央に、アヤナミはこちらに背を向けた形で眠っている。

 ベッドに半ば乗り上げてその姿を覗き込むと、顔色は相変わらず悪いものの、寝顔も呼吸も穏やかだ。長めの前髪をそっと指でかき上げて額に触れる。刹那アヤナミの身体がぴくりと動き、眉根が寄る。一瞬目を覚ますのかと思ったが、それきりだった。

「熱はないみたいだね」

 いつもと同じ、自分よりも少し高めの体温を確認して、そっと手を離す。
 精神的にか肉体的にかはわからないが、余程疲弊しているようだ。普段のアヤナミならば確実に目を覚ましているだろう。

 現状ではアヤナミに何が起きているのか全くわからない。目を覚ましたら詳細を聞く必要があるが、もしかしたらアヤナミ自身にも把握できていないという事も有り得る。いや、もしかしたらその可能性の方が高いかもしれない。何しろフェアローレンと言う死神の魂を宿す、通常の人ではない半神なのだから、予測のできない何かが起きても不思議はない。

 実際、これまで幾度も常識では考えられないような異変が起きているのだから。

 今回はどのような事態が起きるのか。いつもの不摂生からくる、ただの疲労ならば休息を取らせるだけで事は済む。しかし、ヒュウガが見た限り、アヤナミが何かを隠しているのは明白だった。―-隠している、と言えば語弊があるが、アヤナミにとっては取り立てて言う必要のない程度の事だと判断したのだろう。アヤナミはヒュウガが己の全てを把握している必要はないと思っているし、決断を下したら何があってもその意思を曲げることはない。その強情さをヒュウガは熟知しているので、そんな時は無理に立ち入ろうとはしない。

 だが、無駄な事はおろか、必要な事も言わずに事態を悪化させるのが、アヤナミは得意だ。
 仕事に於いては瞬時に状況を把握し、無駄のない判断を的確に下し、駒を上手く扱う明晰さを持つアヤナミだが、その能力を自分自身に対して使う事が全くと言って良い程ないのだ。

 長い時間、アヤナミを見続けてきたヒュウガだ。ちょっとした変化も見逃すはずはないと、自負している。前述の通りの性格なので、その時点で気付いてもヒュウガから問い質したりする事は滅多にない。
 自分が言う前に、できればアヤナミの口から先に言って欲しいという、淡い期待がどこかにあるのだ。しかし、いつも手遅れ直前まで放置され、結局ヒュウガが問い質す事になる。

 アヤナミが己を信用してくれていないと思うのは、やはりこういう時だ。少なくともヒュウガが関わって事態が悪化したこと等ないはずなのに、それでも未だにその壁を少しも崩してくれない。

 恐らくそれは、ヒュウガの行き過ぎたスキンシップという名の、セクハラじみた行為を阻止するための自己防衛なのだろうが、好意を持つ相手が四六時中目の前に居れば、触れて悪戯したくなるのが男の性である。増してやそれを許したのは当のアヤナミなのだ。

 万を持して仕掛けた行為をあからさまに拒絶される事が続けば、隙を見て、執務中の無防備なところを狙うのも仕方ないだろうと、ヒュウガは思う。

 アヤナミはその頻度が多過ぎるとか、状況と場所を弁えろとか尤もらしい事を言うが、元はアヤナミが悪いのだ。自分という餌でヒュウガを釣ったくせに、いつまでも『待て』の状態で『お預け』を食らっている気分だ。だから、許しが出た時は、空腹を満たし、更に食溜めをするべく挑みかかるため余計に警戒される。そんな事が続いた結果、少し大袈裟ではあるが、何時でも何処でもアヤナミが隙を見せたら襲い掛かるという、迷惑極まりない習慣がヒュウガにはできてしまった。

 元々誰かに頼ったり、増してや甘える事等しないアヤナミの、誰よりも近くにいて、ここまで己が踏み入れる事を許しているだけで満足するべきなのか。
 
「昔はもうちょっと素直だったのになぁ」

 ヒュウガはベッドの端に座り直すと、アヤナミの後ろ姿を眺めながら、遠い記憶を蘇らせた。アヤナミとの過去の記憶は、ほとんどと言っていい程、思い出として残っている。その中でも一番鮮烈に脳裏に焼きついてしまった、悲劇を。

 魂の起源を知るきっかけとなった、最愛のベグライターの死。目の前で、己を庇って散った命。成す術もなく、ただ見送る事しかできぬ不甲斐なさを責め、失意の底を彷徨う日々。元より感情を表に出す事があまりないアヤナミだが、この時は全てを拒絶し内から己を破壊するかの如く、静かな狂気に身を置いていた。まるで表情のない、生きているのかさえ疑わしい程虚ろな心の内に、堪えようのない悲しみを宿して。

 己を責め、失意に明け暮れるだけのアヤナミの、ぽっかり空いた心の隙間に、あの死神の記憶が呼び戻されてしまったのか。それとも、同調してしまったのだろうか。

 死神である魂が過去に受けた悲しみ、苦しみ、やり場のない怒りがアヤナミのそれと混ざり合い、融合してしまった。――変わってしまったのだ。神である己の起源を知って。

 実際はそれに至るまで、ぼろぼろだった精神が更に不安定になり、傍にいたヒュウガでさえ理解し難い現象を何度も目の当たりにして来た。全てを受け入れると心に決めた瞬間から、何があってもアヤナミの意志に従う事を優先して来たヒュウガだったが、今までと違う感覚に、何処かもどかしさを感じていたのは否めない。大切なものを失い進むべき道すら見えなくなったアヤナミが、新たな目的に目を向けられるようになった事に、ヒュウガはある意味安堵したのは確かではあった。しかしそのせいでアヤナミの纏う空気が変わってしまったように感じられ、今までとは違う言いようのない焦燥感を覚えたヒュウガは、精神的にも肉体的にも、必要以上にアヤナミを傷付けてしまう事が多くなった。

 半神として目覚めたアヤナミと、それ以前のアヤナミ。どちらとも過ごした時間の長さは然程変わらない。しかし、人間というのは思い通りにならない事が続くと、昔は良かった、等と己の中で美化された記憶に思いを馳せ、現状と比べてしまうものだ。増してやその神が本来の姿を取り戻す事ができれば、自分は必要のない存在になってしまうのではないかと言う、焦りもある。それを承知で尽力しているはずなのに、一抹の虚しさが、余計にヒュウガをアヤナミに執着させる結果となった。

「……」

 いっそ躯など手に入れずに、このままでいて欲しい、等と埒もない事を考えながら、静かに眠るアヤナミの柔らかい銀糸を指に絡める。

――そう言えば……。

 思い出した。ばたばたしていたせいで失念していたが、教会でアヤナミを抱きとめた時の違和感を。身体に触れたら目を覚ましてしまうだろうか、とは思ったが、思い出してしまうと気になって、確かめたくて仕方ない。一瞬の逡巡の後、ヒュウガはゆっくりアヤナミの頬に指を滑らせた。滑らかな肌の弾力を確かめるように首筋から浮き上がった鎖骨へ指を這わせ、いつも面倒だからとボタンを留めていないシャツの肩口に手を潜り込ませると、ゆっくりと肌を露わにしていく。

「うーん、なんつーか、前より柔らかくなった?」

 無駄の全くない、病的に見える程細い身体。ここ数日の事を考えると、更に軽くなっていても不思議はないはずなのに、触れた感触からは、なんとなく抱き心地が良さそうだと感じる。そう思うと、全てに触れて確かめてみたくなって、肩から肘の方向を探っていたヒュウガの手が、胸元へと吸い寄せられるように伸ばされた。

 アヤナミの全身を覆う薄い布の端の、胸に掛った部分を指で払いのけ、開いた場所にそっと触れる。と、アヤナミの身体がピクリと反応を返す。

「…ん」

 外気が肌を掠めたせいか、触れる指のせいか、小さい声を漏らしてアヤナミが身じろぐ。慌てて手を放したヒュウガは、それ以上の動作をする様子のないアヤナミを見て、安堵の息を漏らす。寝具を整え直してから、低くなりかけた陽の光が差す窓辺のカーテンをそっと閉じた。

 このまま眠っているアヤナミを見守り続けていたいような気もするが、目を覚ますまでに、食べられそうな軽い食事と水分を用意しておいた方がいいだろう。穏やかな寝息を立てるアヤナミの額に軽く口づけて、ヒュウガはその場を後にした。

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「内なる魂の叫び」序章 END
続きはR18「Kissxxx」にて掲載予定です。
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