混じり合う。ひとつしかない身体の中に存在する、ふたつの意志。幾年もの間、それと対峙して来た。
 かけがえのないものを失ってから、少しずつ浸食して来たそれを敢えて拒む事はしなかった。だからと言って、受け入れようとした訳でもない。――面倒だったのだ。何もかも。この先の事も、過去さえもどうでも良く思えたのだ。だから思考を停止して空いてしまった穴に入り込んで来た己の『魂の起源』だというそれに、いっそ全てを喰われてしまえば楽になるのではないかと思った。
 何もかも忘れて、その意志に全てを委ねてしまえば……。

 ――いらぬのだ、こんな私など――

 常ならば仕事や任務、上層部との会合や下らない余興等に忙殺され、それ以外の事を考える暇さえもない。むしろ、その方がアヤナミにとっては好都合でもあった。己の身の内に潜む『魂の起源』が欲しているものを一身に求め、ただ目の前に置かれた状況と対峙し、それに没頭していれば余計な事を考えずに済む。
 それなのに。
 教会に潜入し深手を負い、休養を余儀なくされた今の状態は、アヤナミにとって休まるどころか苦痛でしかなかった。
『今まで一直線に突き進んで来たんだから、少し回り道もした方がいいよ。無視し続けてきた事とか、せっかくだからゆっくり考えてみたら?』
 口元で笑みを浮かべながら、サングラスの奥では少しも笑っていないヒュウガの言葉の意図を察して、アヤナミは眉を顰めた。言われなくとも、考えねばならぬ事が山ほどあるのはわかっている。だが、今更どう考えても、元の自分に戻る事などできるはずがない。到底後戻りできる状況ではないのだ。それを理解していながら、ヒュウガは己を顧みろ、と言う。
『全部受け入れるよ』
 そう言いながら己に着き従い、冷徹な刃を振るう男は別のものを欲している。
 互いにそれをわかっていながら拭い切れずにいるのは、何処かに迷いがあるからなのだろうか。無限に拡がる時間が、己を困惑させる。正しい道など誰も知る由もないのだ。
 だが、挑発するように発せられた言葉に迷いなく冷静に応える自分に、違和感を覚えるのは何故だろう。
『――人間として暮らしていた方がずっと幸せだったのに』
 そう言った預魂の言葉に乱された心は……。

 時間などいらぬ。ただ己が魂の命ずるままに――。

 例えそれが間違いだとしても今更後戻りなどできない。戻ったとして、そこから生まれ出るものなど何もないはずだ。ならば、己が進む道は。

「少し闇に潜る」
 そう言って目を閉じたアヤナミの耳に届いたのは、いつもと変わらぬヒュウガの声だった。
「オヤスミ、アヤたん♥ 」
 ヒュウガとコナツの足音。そして扉を閉める音を遠くに聞きながら、アヤナミは意識を己の闇に落とし、ただそれに身を任せる。

 闇に沈めば、溢れるように流れ出すのは『魂の起源』の記憶だ。
 何も考える事もなく、ただその記憶を追い、再認識するだけの作業。己の中の記憶と混ざり合い、融合していく。 鮮烈で激しい魂の意志に呑み込まれていく。
 進むべき道はこれしかないのだと、追い詰められる。
 ……そして支配されていく。

 我が一千年の願いを叶える為に。

 迷いはない。だがそれが、己自身の言葉かどうか、わからない。

 どのくらいの時間が経ったのか。
 睡眠とまどろみを繰り返す、いつもとはまるで違う変化のない時の流れは体内時計を狂わせる。下界と遮断されたこの空間では、昼と夜との区別さえつかない。
 ゆっくり瞳を開け、視線を彷徨わせ、見据えた先に先程出て行ったはずのヒュウガの姿を捉えた。
「……ヒュウガ」
「おはよう、アヤたん」
 口元に笑みを浮かべながら、床に座り込んでいた男は立ち上がり、軍服の皺を伸ばすように叩き、背筋を伸ばす。
 いつからそこにいた、と言う問いをアヤナミは敢えて呑み込んだ。恐らくすぐに戻ってきたのだろうと察しがついたからだ。
「貴様……」
「いい夢、見られた?」
 ヒュウガはゆっくり歩みを進め、厚い強化ガラスに指を這わせると、アヤナミの顔を見上げた。
「……酔狂な事だな。こんな事をしている暇があるのか?」
 冷やかに浴びせられた言葉に、ヒュウガは一瞬笑みを浮かべ、サングラスをかけ直して小さく息を吐いた。
 先程この部屋を出た後、コナツと話しながら執務室へ戻る途中で、ヒュウガはコナツに任務の最終調整を任せて、
再びここへ来たのだった。一度ホーブルグ要塞を離れれば、しばらくアヤナミとも会う事が出来ない。だからその姿をもう少しだけ見ていたいと思ったからだ。
 戻った所で闇に潜ってしまったアヤナミの、血の気のない青白い身体が揺らめくのを、ただガラス越しに見ているしかないのはわかっていた。
 そして、その身体の奥底で、繰り返し見ているものは……。
「ほんとは叩き起こしたい気分だったけどね」
 覆われた瞳の奥から放たれる、何処か険を含んだ言葉。
「……」
 ヒュウガには理解し難かった。ひとつの身体に宿るふたつの意思。絶望の淵にあったアヤナミに手を差し伸べるように入り込んできた魂。覚醒後はその魂の意思のままに目的を遂行してきたが、それは本当にアヤナミの意思なのだろうか。
 そして、古の神が躯を取り戻した時、そこにアヤナミはいるのだろうか。
 フェアローレンとしてのアヤナミを、ヒュウガは受け入れて来たが、それを認めたくない自分がいる。変わっていくアヤナミを自覚するたびに、自分の知るアヤナミがいなくなってしまうのではないかという焦燥感。
 解っていてここにいるはずなのに。
――認められないのだ。
 それでも……。
「少しはオレの事も考えたりしてくれた?」
 今更ながらに、一縷の希望を捨てられない。女々しい自分。
「……」
「なーんてね。アヤたんなかなか起きてくれないから、色々考え過ぎちゃったのかなぁ」 
「…貴様、失敗は許されないのだぞ」
「わかってるよ。そんなの、いつもの事だ。任せておいてって言ったでしょ? だからアヤたんは早くここから出られるように、ちゃんと養生してよ」
「言われずともわかっている」
「……アヤたん、動ける?」
「……?」
 ヒュウガの言葉にアヤナミは怪訝そうに眉を顰めた。いつもそうだ。ヒュウガは唐突に話題を切り替える。
「いやさ、しばらくアヤたんの顔見られないだろうから、もうちょっと近くで見たいかな、って」
「傍に寄れと言うのか? お前の為に」
「うん、そう言う事。あ、無理ならいいけど……」
 ここでそれを拒んだとて、ヒュウガはそれ以上何も求めはしないだろうとアヤナミは思った。が、小さく溜息を吐くと、緩慢な動作でガラスの方へ近づく。水の中だからか、それとも身体の一部が欠けているせいか、バランスを崩しそうになりガラスに手を付く。
「…っ、アヤたん、無理しなくていいって……!」
 慌てて手を伸ばすが、当然ながらガラスの壁の向こう側にある身体を抱き留める事などできずに、ヒュウガはガラスにへばりつく羽目になった。
「…っぶないなぁ、もう」
「別に無理などしていない。……これで満足か?」
 ヒュウガはぶつけた鼻をさすりながら、間近にあるアヤナミの顔を見上げた。そして向こう側のアヤナミの手に合わせるように、自分の手をガラスに這わせる。
「う〜ん、まぁ、こんなもんかな。ガラス越しにキスしてもつまんないしね」
「バカな事を……」
「あ、なんならオレ、そっち行っちゃおうかな、そしたらアヤたんに触れるし★」
「貴様、ふざけるのもいい加減にしろ」
「ゴメンゴメン、これだけで、今は我慢しておくよ。だからもう少し……」
 このままで、できる事ならずっと。
 訪れた沈黙。互いに何を考えているのか探り合っているようにも、ただ流れる時間を共有しているだけのようにも見える。
「……遠いね」
 ぼそりと呟いて、ヒュウガはゆっくりとガラスから手を離すと、今一度アヤナミと向き合った。
「じゃあ、オレ行くね。……向こうで待ってるから」
「……ああ」
にっこり微笑んで踵を返すと、ヒュウガは足早に歩き出した。
「……ヒュウガ」
 確実に足を止め振り返えるであろうヒュウガに、どんな言葉をかけるべく呼び止めたのか、アヤナミは自分でもわからなかった。
「いや……」
「大丈夫」
 後ろを向いたまま、顔だけこちらを向けて、ヒュウガは軽く手を上げた。
「オレ、アヤたんの為ならなんでもするから」
「……っ」
 上げた手を左右にゆっくり振りながら重い扉を開き、そのまま部屋を出る。 アヤナミが何か言おうとしたのはわかったが、それは敢えて聞かなかった。
――後戻りはできない。
 それはどちらもわかっている事だ。迷いがあろうとも、今となっては進むべき道はひとつしかない。アヤナミを迷わせているのは、もしかしたら自分かもしれないと、ヒュウガは思う事がある。だとしたら、断ち切らせるのも自分の役目だ。
 正直なところ、自分のせいでアヤナミが戸惑ったり傷ついたりするのは、些か不謹慎ではあるが、ヒュウガにとってうれしい事でもある。できるなら、もっと追い詰めて、こちら側に引き込んでしまいたいと思う程に。本気でそう願うならば、自分の手で穢してしまうのは簡単な事だ。
 だが、孤高の魂はそれを望んではいない。
 契約と言う名の鎖で繋がれる事を選んだ時から、すべき事は決まっている。
 それでもあれこれと余計な事を考えてしまう。矛盾の極みだ。

 人気のない通路に、靴音だけが響く。
「遠いんだよね……」
 あれ程寄り添って触れられそうな位置にいるのに、ガラス一枚が隔てる距離の遠さ。
 今のふたりを象徴しているような。
 近付いてはならぬ。近付き過ぎてはならぬ。何かが警鐘を鳴らしているようにさえ思える。


――それが、ふたりの距離。


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