雪は綺麗で冷たくて意地悪で、嫌いだ。
目の前にある、手の届く存在でさえ、降りしきる白い粒が遮って、見失いそうになる。
全てをなかったもののように覆い隠して消そうとする。
そのくせ、触れたらとたんに体温に馴染んで溶けて、濡れた痕跡だけ残して消えてしまう。
その手に触れたものが幻だったかのような錯覚を起こさせる。
……ああ、でも真っ白い視界が、真っ赤な血で汚されていくのを見るのは好きだ。
穢れのない無垢な色は混ざり合うことなく、ただ置かれた色をだけを写す。
どんな色にも染まる。
次に落ちてくる純白が、その色を覆い隠すまで。
だから、せめてそれまでは、自分が穢したその痕を、脳裏に焼き付けておきたい。
できる事なら、永遠に。
それは叶わぬ事とわかっていても、そう願わずにはいられない。
いつ手を離れるともわからない、この存在も……。
今この腕の中にあって、自分に落ちて来た白い身体も、雪のそれと同じだ。
何度も、幾つも赤い血の跡を散らせ、己の痕跡を残し、例え全てその色に染めたとしても、自分の物になるものなど何一つない。
肌に散った赤い花も、この手で暴いて乱れた吐息も、全て跡形もなく消え、最後に残るのは自分に刻まれた情事の痕と、虚しさだけだ。
その思いからなのか、少しでも長く自分の存在をその身体に留めておきたくて、何度も奪うように求めてしまう。
欲望は果てがなく、返す反応に満足できずに、更に深く己を誇示しようと行き過ぎた行為を繰り返す。
行き着く先のない螺旋をただひたすら駆け上る。
ただの堂々巡りに過ぎないとわかっているのに。
それならばいっそ。
「アヤたん…」
潤んで霞んだ紫の瞳を覗き込みながら名を呼ぶと、彷徨っていた視線が目の前にある顔に固定された。
「…ん」
薄く開いた唇から気だるげに小さく零れた返事とも吐息とも区別がつかない音が、耳を掠める。
「オレはアヤたんのモノだよね?」
「?…、なにを…」
今更何故そんなことを言うのかと、訝しげな表情に、軽く微笑み返す。
「ならさ、魂半分だけじゃなくて、オレの事全部、その身体に取り込んでよ」
「貴様…それはどう言う…」
力なくベッドに投げ出されていた腕が伸びて、ヒュウガの髪を捉える。
先程までの虚ろな表情とは違う、少し怒気を孕んだ鋭い視線と鈍い痛みを無視して、髪を掴む手に己の手を重ね、自虐的な笑みを向ける。
自分でも馬鹿な事を言っているという自覚はあった。
が、このどろどろと澱のように積み重なっていく嗜虐的な心は、最早そうするより他に消し去りようがないように思えた。
「このままじゃ、辛いんだよ」
行きつく場所も見えないまま、模索し続けるより、この身も心も全て同化して、全てを放棄し、その身体を動かす糧と成り下がってしまえたら、どんなに楽か。
そのまま思考を停止してしまえば、己の過ぎた独占欲とも取れる身勝手な思いも、曝け出す事なく沈んでしまえるだろう。
普段、何気に言いたい事は言っているつもりでも、実は本心を口にするのは得意ではない。
それどころか、それを隠す事が身に着いてしまっていて、素顔を曝け出すのが怖いのだ。
当たり障りのない適当な態度を装い接しているこの相手は、その虚構を見抜いているのだろうか。
何処までかと言われれば、それを推し量る基準などはないが、己の気付かない部分までも見られているような気もするし、実は全く気付いていないのではないかと思うことさえある。
この存在にではなく、結局、己の情けない心に振り回されている。
「アヤたんと、ひとつになっちゃいたい」
そしたら、楽じゃん?と自嘲の笑みを浮かべた刹那、容赦ない平手が頬を打ち視界が朱に染まる。
「貴様は、私との契約を違えるつもりか」
思いがけない仕打ちに茫然とその顔を見ると、怒りに滲んだ瞳が真っ直ぐに見据えている。
自分の為に怒りを露にしている表情が、少しだけ冷静さを取り戻させてくれたような気がした。
契約?そうだ。
常に傍にあり、守り抜くと誓った「契約」と言う名の鎖。
最初はそれだけあればいいと思っていた。
だが、己を受け入れ、喘ぐ身体を手に入れても、心はそこにないと知った時から、その鎖が邪魔以外の何者でもないと、身を持って感じさせられた。
それがひどく冷たい言葉だと言う事を。
契約と言う言葉に絡め取られ、身動きが取れない己の弱さのなんと不甲斐ないことか。
所詮、欲しい物の前で駄々を捏ねる子供の言い訳と変わらない。
――我ながら情けない。
そう思うと、腹の底から笑いが込み上げてくる。
全てを受け入れるとか、何を犠牲にしても構わないとか、偉そうな事を言っているくせに、今の自分は役立たずのただの男だ。
「ヒュウガ」
糸が切れたようにバランスを失った身体がアヤナミの傍らに転がる。
天を仰いだまま、手の甲でひどく情けない表情をしているであろう自分の顔を隠し、ただ笑ってみせる。
「お前、何を考えている?」
少しだけでも本当のアヤたんが欲しいんだよ、と心の中で呟く。
そう口に出したら、何と答えるだろう。
いつもの戯言と同じように、馬鹿な事を言うなと冷たい言葉が返って来るだけか……。
「ごめん、もういい。今の忘れて」
「ちゃんと説明しろ」
「ただの、オレの我侭だからさ」
だから、アヤたんももう、何も言わないで、と怪訝そうに見下ろす白い頬と柔らかな手触りのいい髪をなでると、そのまま引き寄せて唇を重ねる。
「・・・っ、お前はいつも…、訳のわからん事ばかり…」
最後まで言う気がないのなら、初めから言うな、と振り払おうとした手を掴んで引くと、そのまま体勢を入れ替える。
問いかけようとした言葉を発したとして、返って来る答えが何であれ、今の自分には何を言われても届かないような気がした。
「アヤたん、大好きだよ
♥」
「…知っている」
「なら、とりあえずそれだけでいいや」
――こう言う戯れなら、どんなことでも言えるのに。
このまま本心を言えないまま時が過ぎるのか、それともいつか言える時が訪れるのかはわからない。
そのどちらがいいのかもわからない。
そうして先の見えない不安を抱えたまま、ずっと堂々巡りを繰り返すのだとわかっていながら、それでもいいんじゃないかと、納得したふりをする。
恐らくこの先、何回も……。